梅毒という病気について:歴史的観点から-その2
こんにちは、Dr. Racyです。
前回からの続きで、梅毒の治療法の歴史と近現代での人道的問題について見ていきましょう。
毒をもって毒を制す
梅毒は古くからある病であり、さまざまな治療が試みられてきました。
ここでは「水銀」と「マラリア」について取り上げてみます。
水銀治療
水銀と言えば毒、というイメージを持っている方は多いと思います。有名な公害病の水俣病の原因物質はメチル水銀でした。
梅毒の治療に水銀を用いるのは世界的に有名な書物、イブン・スィーナーの『医学典範』(The Canon of Medidine)にはすでに記載されているようです。イブン・スィーナーはペルシャの学者で哲学・医学・科学に通じ、「イスラム世界が生み出した最高の知識人」と言われています。当時医学はヨーロッパよりもイスラム圏の方が発達していたといわれています。
そこでは梅毒に限らず、慢性の皮膚病変をきたす疾患、例えばチフスやハンセン病にも使用が推奨されていたようです。(参考文献[1])
水銀による梅毒の治療法にはいくつかあったようで、1706年のイギリスの書物によると水銀の軟膏を塗る、水銀入りの漆喰を塗る、または水銀を釜にいれて熱して蒸気を作り、釜の真上の椅子に患者を座らせて水銀蒸気でいぶす、といった治療も行われていたようです。
このような治療の目的は患者の流涎を促すことであり、これによって毒素を体外に出す、という考え方だったようです。(参考文献[2])
余談ですが、ペニシリンが応用されるまでの間に、ヒ素を含む薬が開発されていました。
ドイツのパウル・エールリヒと日本の秦佐八郎が合成したサルバルサン(Salvalsan)という有機ヒ素化合物です。
1910年に発表され、1915年に製薬会社が製造に成功し、副作用が多かったようですがペニシリンの利用開始の1943年まで使用されました。(参考文献[3])
マラリア療法
感染症を治すためにあえて別の感染症に罹患させる、という治療が行われていた時代がありました。
1917年、ウィーンの精神科医ユリウス・ワーグナー=ヤウレック(Julius Wagner-Jauregg)はマラリアに罹患した兵士から取った血液を進行神経梅毒の患者に注射しました。このとき血液型は発見されてまもなくであったということもあって考慮されていなかったようです(!)。
9人の患者にマラリアを注射して経過を観察しました。結果、「9人のうち6人が改善した」と結論づけ、発表しました。この治療法は治る人も治らない人もいるし、死という副作用も決して珍しいものではありませんでした。
それでもワーグナー=ヤウレックは一躍世界的に有名になり、1927年のノーベル医学・生理学賞まで受賞しています。ノーベル賞を受賞したただ2人だけの精神科医のうちの一人です。
精神分析を始めたことで知られるあのフロイトもワーグナー=ヤウレックを賞賛したそうです。
この治療法もまたペニシリンの応用により一気に地位を失いました。(参考文献[4])
タスキギー梅毒実験
経緯
タスキギー梅毒実験とは、1932年に始まった、梅毒を治療しなかった場合の経過を観察する研究で、1972年にマスコミにより公になり、最終的に1997年に当時のアメリカ大統領ビル・クリントンが謝罪する事態にまでなりました。
1929年のアメリカで、南部の田舎の黒人において梅毒がどれくらい広まっているか調べたRosenwald Studyという研究が行われました。その結果、アラバマ州のメコン郡(タスキギーという町もこの中にあります)で最も梅毒の有病率が高いということが分かりました。
さらに1932年、「メコン郡の梅毒有病率は極めて高く、しかも、その99%は今まで治療を受けたことがない。この2つの事実を組み合わせると世界で唯一の研究ができるかもしれない」と外科医のH.S.Cummingがタスキギー大学に書簡を送っています。
タスキギーで梅毒に感染した黒人男性たちを無治療で観察しようというこの研究はこうして始まりました。
このような実験を正当化する理由として、「このような黒人は今後も治療を受けようとはしないだろう」という考えがあったようです。
研究手法
梅毒に感染した25-60歳の黒人男性が対象になりました。被験者として選ばれたのは小作人や小作農民でした。もちろん治療の計画はありませんでした。
被験者は治療を受けられると信じており、しかも実験の参加者であることは知らされませんでした。被験者のモチベーションを保つために、ほとんどの被験者に水銀の軟膏が配られました。このときすでに水銀は梅毒に対して効果がないことが分かっていました。また、若い人にはネオサルバルサン(先ほど紹介したサルバルサンの改良版)を少量だけ与えられました。
さらに、「この検査を受ければ特別な治療を受けられる」と言って神経梅毒かどうかの検査である腰椎穿刺の被験者を募りました。
この研究のゴールは、未治療で観察され死亡した被験者の解剖にありました。解剖は病院で行う必要があるため、死亡した場合の埋葬費用として一人当たり50ドルの負担を約束しました。
経過
この研究は、アメリカ公衆衛生局(United States Public Health Service; USPHS)という政府の機関のもと、1972年にメディアで大きく報じられて非難されるまで40年間続きました。それまで研究成果が発表され、人種に関する疑義が呈されても合理化されていました。(参考文献[5])
研究の終焉のきっかけとなったのは1972年にUSPHSの疫学職員だったピーター・バクストン(Peter Buxton)でした。New York Timesに研究内容と非難を掲載し、国際的に大きな問題になりました。内部告発によって終わったのです。のちにバクストンはこのように言っています。(参考文献[6])
I didn’t want to believe it. This was the Public Health Service. We didn’t do things like that.
このような仕打ちは現代の医療倫理に照らしてもちろん極めて非人道的な人体実験です。しかし終焉したのが内部告発であり、1972年まで続いていたということ、またわが国でもたとえばハンセン病の隔離政策が終焉したのが1996年であることなどを踏まえると、決して過去の、歴史上の事件というわけでもありません。
倫理というものは固定された不変のものではありません。過去と現在を常に照らし合わせながら不断に善と未来を考えていくプロセスこそ倫理なのではないかと思っています。
まとめ
今回は梅毒の過去の治療法のうち2つと、それに関連してアメリカでの人体実験の歴史についてご紹介しました。
その3では梅毒に関するもう一つの人体実験と特効薬ペニシリンについてご紹介したいと思います。
参考文献
- Philip O. Ozuah (2000). Mercury poisoning. , 30(3), 91–99. doi:10.1067/mps.2000.104054
- Calmette, Riverius reformatus (London, 1706), pp 471-4.
- https://www.bdj.co.jp//safety/articles/ignazzo/hkdqj200000u17z1.html
- Raju, T. N.K. (2006). Hot Brains: Manipulating Body Heat to Save the Brain. PEDIATRICS, 117(2), e320–e321. doi:10.1542/peds.2005-1934
- Allan M. Brandt (December 1978). “Racism and Research: The Case of the Tuskegee Syphilis Study”. The Hastings Center Report 8 (6): 23-24.
- https://www.cdc.gov/tuskegee/timeline.htm
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