極限状態の心理と「人間」について

2022年6月27日

こんにちは、Dr. Racyです。

今回は苦しみの極限状態に置かれた人間のこころの動きとそこから見えてくる人間のつよさを見ていきたいと思います。

紹介するのは世界的に有名なこの本、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』です。

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「夜と霧(Nacht und Nebel)」という特徴的なタイトルは、1941年にヒトラーによる総統命令「ライヒおよび占領地における軍に対する犯罪の訴追のための規則」のことで、政治犯の摘発・処刑目的だったようで、摘発された人は夜霧のごとく跡形もなく消え去ったそうです。

ちなみに『夜と霧』という同名のドキュメンタリー映画(1956年)もあります。こちらはアウシュビッツ収容所の虐殺を告発する映画で、当時の実際の写真などかなりショッキングなシーンが多数含まれますので視聴する際は注意してください。

フランクルってなにもの?

ヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)はオーストリアの精神科医です。ウィーン大学在学中からアドラーやフロイトに精神医学を学びます。ウィーンの精神病院に勤めていましたが、第二次世界大戦がはじまり、ユダヤ人であったことからナチスにより強制収容所に送られてしまいます。
父も、母も、妻も収容所で亡くし、収容所の中で極限的な経験をしました。

1945年にアメリカ軍に解放されると1955年にはウィーン大学精神科教授になり、「実存分析」などの独自の理論を唱えました。

『夜と霧』は収容所の中での極限状態の自分や他の収容者を観察し、解釈とともにつづった書籍です。

エピソード1:感情の鈍麻

ユダヤ人が収容所に入ってしばらくは驚きや好奇心、苦悩などの感情がみられたようですが、それが徐々に感情鈍麻(apathy)に移行していったようです。

例えば仲間が棍棒で殴られていても何も感じない。少年の足が凍傷で壊死して真っ黒になっていても何も感じない。仲間の死体から役に立つものをはぎ取るために群がってもなにも感じない、といった風に。

なにか、キューブラー=ロスの死の受容プロセスとの共通点を探りたくなってしまいます。

エピソード2:収容所のユーモア

「極限状態なのにユーモアなんてあるの?」と思ってしまいますが、フランクルはこう言っています。

ユーモアは自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。

また、こういうたとえで人間の苦悩と喜びを表現しています。

人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。

苦悩の大きさはどうでもよい、というのはにわかには信じがたい話です。私自身大きな苦悩は経験したくありませんが、経験することによって腑に落ちることはあるのでしょうか。

収容所でなくても、たとえば今現在も抑圧されている人々、難病に苦しむ人々などはもしかしたら「魂の武器」で苦悩に立ち向かい、小さなことに喜びを見出しているのかもしれません。頭の片隅に置いておきたいです。

エピソード3:精神の自由

フランクルはここまで、収容所におけるさまざまな仕打ちで収容されている人々の心理がどのように変わるのかを見てきました。そこでこのような疑問を提起します。

人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、たとえば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、との印象をあたえるかもしれない。

しかしフランクルはこれに反論します。つまり極限状態において多くの人間がとった心理状態・行動の「ほかのありようがあった」というのです。

実際感情の暴走を抑えたり、周りの人を気にかけるといった「わたし」を最後まで見失わなかった人が少ないながらも一定数いたというのです。

人間は、どんな状況に置かれても「精神の自由」を保つことができる生き物なのです。ギリギリの状態でも「わたし」でいられる生き物なのです。

これはすべての人に当てはまるとは言い切れないかもしれませんが、そこに人間の一縷の尊厳があるのではないでしょうか。

生きる意味

孫引きになりますが、フランクルはこのような言葉を引用しています。

わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ

ドストエフスキー

ちなみにこのドストエフスキーの言葉はGoogleで調べても『夜と霧』での紹介しか出てこず、本当にドストエフスキーが言ったかどうかはやや不明確です。

苦痛しかない収容所の生活において、自分がいかに覚悟し、いかにふるまうか、それが生きることに意味を与えたといいます。
快楽や安逸しかない人生をうらやむことは多いと思います。しかし現実に私たちの生は苦痛に満ちており、それを変えることは難しいでしょう。生まれた意味を疑う日もあるでしょう。
そこで苦しい生にこそ意味を与える考え方というのは参考になるのではないでしょうか。

もしかしたら患者さんからそのヒントを得られるかもしれませんね。

苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

フランクル

まとめ

『夜と霧』のごく一部を抜粋引用しながら人間と生について考えてきました。
「そんな簡単に言わないでくれよ」と思うかもしれません。私も半分そう思っています。
しかし圧倒的な苦悩にさいなまれる患者に日々向き合う医療者であり、我々も人間であることからどこかで考え方のヒントになる日が来るかもしれません。

Wikipediaによると1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベスト10に入ったそうです。それほど人間に強く働きかける文章なんでしょうね。

読みやすい文体で、かつ比較的短いので気になった方はぜひ読んでみてはどうでしょうか。

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